研究成果

南琉球最古の土器の謎を解明 ~新たな非破壊的な理化学分析で明らかになった先史土器文化の変遷~

琉球大学戦略的研究プロジェクトセンターの山極海嗣特命助教らの研究チームによる研究成果が、考古学の国際学術雑誌「Journal of Archaeological Science: Reports」誌に掲載されます。

<発表のポイント>
◆どのような成果を出したのか
 南琉球(宮古・八重山諸島)で最古の年代(1万年前)を示す土器の特徴を初めて明らかにし、後続する先史時代の土器との関係を示しました。その結果、南琉球の先史時代が定説よりも複雑な文化関係や系統をもつ可能性が示されました。
◆新規性(何が新しいのか)と意義、将来の展望
 独自の蛍光X線を用いた理化学的な分析手法により、従来は研究が難しかった土器の小さな破片から、多くの謎を残す南琉球の先史文化に新しい知見が得られました。本手法はその性質上様々な考古学的資料に用いることが可能で、今後は考古学と理化学的分析が融合した研究によってより多くの残された謎の解明が期待されます。

1万年前の土器片

<発表概要>
 2019年6月28日付で、琉球大学戦略的研究プロジェクトセンターの山極海嗣特命助教を中心とした研究チームによる研究論文が、国際的な考古学専門誌「Journal of Archaeological Science: Reports」のオンライン版に掲載されました。本研究は蛍光X線を用いた新しい非破壊的な土器分析手法によって、石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から発見された土器片(図1)を中心に、南琉球地域(宮古・八重山諸島/先島諸島)の先史時代の土器を比較分析したもので、これまで謎に包まれていた南琉球の1万年前の特徴を明らかにするとともに、本地域でいままで最古とされてきた土器の利用を伴う先史文化(下田原(しもたばる)期:約4,800~3,600年前)の成立について新しい仮説モデルを提示しました。

図1 白保竿根田原洞穴遺跡から出土した土器(沖縄県立埋蔵文化財センター所蔵)

<白保竿根田原洞穴遺跡の重要性> 
 本研究の対象となった白保竿根田原洞穴遺跡は石垣島の東部沿岸に位置する遺跡で(図2)、近年の沖縄県立埋蔵文化財センターの発掘調査により約28,000年前の化石人骨が発見されたことで、報道などでも大きく取り上げられました(注1)。しかし、この遺跡では他にも約1万年前の年代を示す土器(注2)が見つかっており、これも南琉球(宮古・八重山諸島)の先史時代文化に関する定説を揺るがす発見として注目されています。
 白保竿根田原洞穴遺跡で発見された化石人骨は3万年に近い遥か遠い昔に人類が南琉球へ辿り着いていたことを示していますが、1万年前頃から4,800年前頃の間は人が居住した痕跡が確認されていませんでした(図3:南琉球の「不明の時期」を参照)。

図2 南琉球地域と白保竿根田原洞穴遺跡の位置

図3 北琉球・南琉球と周辺地域の歴史的関係
 北琉球、南琉球とも周辺の日本列島や台湾・フィリピンとは異なる歴史的変遷であったことが分かります。また、北琉球と南琉球は900年前頃(11~12世紀頃)まで物質文化における共通性が低く、異なる文化的起源を有していたのではないかと考えられてきました。

<下田原(しもたばる)期:南琉球最古の物質文化があったとされていた時代>
 考古学では過去の人々の生活痕跡である「遺跡」や、遺跡から見つかる当時の人々が利用した道具や食糧の残滓などの「遺物」をもとに、過去の人々の「物質文化(注3)」を復元しますが、南琉球でこうした物質文化が継続的に確認されるようになるのは約4,800年前になってからのことでした。この時期は「下田原期」(注4)と呼ばれ、遺跡から土器に加え石器、貝製品、動物の骨・牙を利用した製品などの遺物が確認されたころから、従来は南琉球最古の物質文化であると位置付けられていました。下田原期の遺跡は石垣島や西表島などを中心に確認されていることから、当時の人々は南琉球でも八重山列島を拠点に生活してい たと考えられ、遺跡から出土した炭化物などから測定された放射性炭素年代(注5)によって少なくとも約3,600年前まではこの文化が継続していたことが分かっています(注6)。

図4 南琉球の下田原期の土器(波照間島下田原貝塚出土:沖縄県立埋蔵文化財センター所蔵)

<南琉球の物質文化は南方起源なのか?>
 南琉球で下田原期が展開した時期、その北東に位置する沖縄島を中心とした北琉球地域でも土器を中心に様々な遺物によって特徴づけられる「貝塚時代」が始まっていました(図3を参照)。北琉球の貝塚時代はこの時期に日本列島の九州で展開した縄文文化の影響を受けつつも、独自の物質文化を展開したことが分かっていますが(注7)、南琉球における下田原期の土器をはじめとした物質文化は北琉球の貝塚時代のものとは大きく異なる特徴を持っていました(図4:注8)。このことから、約4,800年前に現れた下田原期の文化やそれを担った人々は、北琉球以北の日本列島ではなく台湾などの南方の地域に文化的な起源をもつ人々であったのではないかと考えられてきました。
 ところが、近年の白保竿根田原洞穴遺跡において下田原期よりも遥かに古い年代(約1万年前)の土器が見つかったことで、こうした定説を再検証する必要性が生まれました。なぜなら、台湾やその南のフィリピンで土器を利用する物質文化が確認されるようになるのは6,500~5,000年前以降の新石器時代になってからのことであり、それ以前の両地域は旧石器時代と呼ばれる土器を利用しない時代であったからです(図3)。本研究ではこの重要な土器を解析することで、こうした南琉球の先史文化変遷の謎に迫りました。

<1万年前の土器の信頼性>
 本研究の重要なポイントは、解析する土器が1万年前のものだということです。当初、この土器の年代は従来確認されていた土器の最古年代をあまりにも大きく更新してしまうことから、その年代には懐疑的な目も向けられました。しかしながら、その年代の信頼性は主に次の理由によって支持できます。(1)複数の土器片(図1)が、放射性炭素年代によって約1万年前の年代を示す地層から発見されている。(2)白保竿根田原洞穴遺跡では下田原期に相当する地層や土器も確認されているのに対し、約1万年前の土器はそれよりも深い(≒古い)地層から発見されている。(3)地層の炭化物などから測定された複数の炭素年代値も1万年前頃の年代にまとまっており、土器に付着していた炭化物からも同様の古い年代が測定されたことが報告されている(文献 ①と②)。こうした複数の証拠は、白保竿根田原洞穴遺跡から出土した土器の1万年前という年代の信頼性が高いことを示しています。

<南琉球最古の土器研究を阻んでいた課題>
 本研究に用いた1万年前の土器は、それを研究する上で大きな課題が存在していました。これらの土器がいずれも表面に文様や装飾、人為的痕跡がなく、本来の形が分からない小さな破片であったことです。考古学的な土器の研究では、主に道具として利用された土器の本来の形や大きさ、土器の表面に施された文様(模様)や装飾、製作・使用の痕跡といった特徴を分析し、その特徴を比較することで土器を製作・利用した人々の地域間の文化的な繋がりや、時代間での文化系統の連続性を明らかにします。しかし、今回の土器片はいずれもこうした分析が難しく、この土器がどのような特徴を持ち、その後の時期(下田原期)の土器と文化的にどの様な関係を持つのか(或いはどの地域から来た人々が作った土器なのか)については謎に包まれていました。
 つまり、白保竿根田原洞穴遺跡で発見された最古の土器を研究する上では、まず、「小さな破片からどのように情報や特徴を引き出して分析するか」が克服すべき課題であったと言えます。特に南琉球では多くの土器に模様や装飾がなく、下田原期など古い時代になればなるほど土器は断片的な破片で発見される傾向があります。こうした破片資料は、従来の分析の対象からは外されることも多く、こういった資料を活用できないことが研究の進展を阻む要因となっていました。
 加えて、遺物は遺跡から発見された段階から「文化財」として扱われます。近年、理化学的分析を考古学に応用する事例が増えたことで、従来は明らかにすることが難しかった新しい発見がもたらされるケースも増えていますが、こうした分析は対象資料を破壊することも多く、可能な限り保存・継承していくべき文化財には適用が難しいという課題を抱えていました。とりわけ白保竿根田原洞穴遺跡で発見された土器は、数少ない古い年代を示す土器の事例であり、その希少性から破壊分析は最も避けるべき選択肢でした。したがって、「いかに資料を傷つけず分析するか」も克服すべき課題であったと言えます。

図5 不均一な土器の胎土とそれが含む利用素材の状態や、素材への加工の痕跡

<画期的な土器解析手法の開発>
 こうした課題に対し、研究チームは先行研究において、考古学や人類学を中心に分析化学や統計学を融合させることで、X線分析顕微鏡という特殊な分析機器による元素測定と統計解析(注9)を組み合わせた新しい土器分析手法を開発し、これにより「小さな土器破片の胎土(注10)から非破壊的にその土器の特徴を分析する」ことを可能にしました(文献 ③と④)。
 土器は必ずしも天然の粘土をそのまま器に成形して焼成すれば完成するわけではなく、粘土中から異物を取り除いたり、或いは意図的に混ぜ物をしたりすることで、焼成に耐え得る「胎土」を作らなければなりません。これらは土器作りの「技術」の一つであり、一見不均一にも見える土器の胎土の状態には、その製作技術を復元する上で重要な情報が含まれています(図5)。
 研究チームは、蛍光X線(注11)を用いる分析機器であるX線分析顕微鏡によって、こうした情報を元素構成データや元素分布データとして引き出し、土器の素材的な特徴を検出することを可能にしました(図6)。また、一つの土器片から200点以上の元素構成データを測定することで、土器の胎土が持つ「不均一さ」を数値化し、胎土成分の均質性や、異質な混入物の有無・混入頻度を評価することができるようになりました。これは同時に、土器の材質の特徴を定量化(数値化)することでもあり、研究チームはこのデータに統計解析を加えることで、土器の材質の共通性や相違性を解析することを可能にしました。これは、「似ている、似てない」という判断を人の主観的な判断基準ではなく、データに基づいた厳密な計算によって行うもので、これによって客観的な評価基準によって土器の素材の違いや共通性を明らかにすることができるようになりました。

図6 X線分析顕微鏡を用いた土器胎土解析の例
A:土器の胎土に含まれる元素の構成比を示したもの。231点の計測点の各々における複数の元素の比率が%で示されます。
B:土器表面上の元素の分布や纏まりを画像化したもの。各元素の分布している場所が明色で、分布していない場所が黒色で示されます。

<明らかになった1万年前の土器の特徴>
 今回、研究チームは沖縄県立埋蔵文化財センターと協力のもと、この新しい土器解析手法を用いて約1万年前の土器の胎土を解析し、下田原期の土器の解析データと比較しました。その結果、白保竿根田原洞穴遺跡から出土した1万年前の土器の材質が特徴的な独自の類似グループを形成し、更にその一部が後続する下田原期の比較的古い年代とだけ共通性を示すことが明らかにされました。
 今回の研究チームらの分析では、主に元素構成データ(スペクトルデータ)をもとに白保竿根田原洞穴遺跡の土器の材質の特徴を捉え、石垣島や波照間島に位置する下田原期の遺跡から出土した土器を加えて統計的に解析することで、お互いの類似関係が検証されました(図7)。この解析では、白保竿根田原洞穴遺跡の土器、及び下田原期の土器の材質的な特徴が統計的には4つのグループに分かれることが示され(図7:A)、白保竿根田原洞穴遺跡の1万年前の土器は大半の下田原期の土器とは異なるグループを形成することが明らかになりました(図7:Bの右下のグループ)。
 しかし一方で、興味深いことに、これまで同じ土器利用文化だと捉えられてきた下田原期の中でも、比較的古い年代の遺跡(4,800~4,200年前)の土器と比較的新しい年代の遺跡(3,900~3,600年前)の土器とでは材質の特徴が異なることが分かり(図7:B)、白保竿根田原洞穴遺跡の1万年前の年代を示す土器の一部が、下田原期の古い年代の土器の特徴と共通することも明らかになりました。

図7 白保竿根田原洞穴遺跡の1万年前の土器と下田原期の土器の関係性。
(A):土器胎土の測定結果を用いて統計的に解析された類型(クラスタリング)。統計的には解析した土器の胎土が4つに分類されることが示されました。
(B):土器を時代ごとにグループ化(灰色部分)したもの。1万年前の土器や下田原期の古い年代の土器が下部のグループに纏まるのに対し、下田原期の新しい年代の土器は上部のグループに纏まることが分かります。

<1万年前と下田原期の土器利用文化のつながりと変化>
 今現在、南琉球では1万年前から4,800年前の下田原期の間をつなぐ遺跡は発見されていないため、その間に何が起きたのかは明らかになっていません。しかし、今回の分析結果は、1万年前における土器の材料やその加工方法が、その後の下田原期の古い年代と類似していたことを示しています。このことは、1)当時の人々が土器を作る際に利用する素材資源の条件が似通っていたことで偶然もたらされた可能性に加え、2)1万年前から4,800年前頃まで同じ土器作りをする文化が継続展開していた可能性をも示唆しています。
 また、下田原期の比較的古い年代(4,800~4,200年前)から比較的新しい年代(3,900~3,600年前)にかけて、土器の材質的な特徴が変化したことも明らかになりました。この材質の変化は、遺跡が立地する環境に影響を受けている可能性もありますが、比較的新しい年代(3,900~3,600年前)では、同じ石垣島内の遺跡および海を隔てた波照間島の遺跡で見つかった土器も材質の共通性を示しており、材質の変化は単純に生活する環境が変わったという理由ではなかった可能性があります。この点に関しては今回のデータだけでは明確な答えを導くことはできませんが、これまで下田原期と台湾と文化的関係が示唆されてきたことを考えると、この土器の特徴の変化は従来提唱されてきた台湾からの文化的影響を反映している可能性も考えることができるでしょう。

<南琉球の先史時代における新しい仮説モデルと今後の展開>
 南琉球の土器を利用する先史時代の始まりは、長い間台湾などの南方地域との関係に注目して考えられてきました。しかしその一方で、先史時代における南琉球と北琉球以北の地域との関係はほとんど注目されていませんでした。これに対し、研究チームの成果は、白保竿根田原洞穴遺跡から出土した1万年前の土器の特徴を明らかにし、その材質の特徴が従来は南方起源とされてきた下田原期の古い段階と類似することを示しました。これを受けて、本研究チームは南琉球の先史時代の変遷を説明する従来の定説に加え、新しく二つの仮説モデルを提示しました(図8)。
 今回提示された新しいモデルは、南琉球の先史時代の変遷が従来考えられていたよりも複雑であったことを示しており、1万年前という段階には台湾やフィリピンなどの南方地域に土器利用が確認されていないことを考えると、今後はその当時に土器利用が展開していた北琉球以北の日本列島や中国大陸との比較研究を視野に入れていく必要があります。また、南方地域との関係性についても、南琉球の先史時代における土器利用の始まりに南方地域が関わった可能性だけでなく、逆に台湾やフィリピンなどの地域における土器利用文化の展開に南琉球の土器利用が関わった可能性についても改めて検証する必要があります。研究チームによる今回の新しい発見は、同時にこれからの研究における新しい検証課題を提示するものであるとも言えるでしょう。
 今後、研究チームは南琉球だけでなく、周辺を含めた広い地域での比較研究を行うことを予定しています。山極特命助教らは今回構築した新しい土器分析手法は、土器の形や大きさ、文様や装飾を分析する従来の土器研究と組み合わせることでより効果を発揮するものと考えており、考古学や分析化学・統計解析が機能的に融合した多角的な分析よって、未だ多くの謎を残す東シナ海に浮かぶ島嶼地域における土器利用の始まりや、それを担った人々の複雑な移動の過程、歴史的な変遷の解明を目指して研究を続けていきます。

図8 南琉球先史時代に関する従来の定説と新しい仮説モデル
新しい仮説1:1万年前と下田原期の古い段階の土器材質の類似を偶然の一致とするもの。
新しい仮説2:1万年前と下田原期の古い段階の土器材質の類似を文化的連続性とするもの。
*いずれの場合も2万8,000年前の化石人骨で見つかった人々との関係はよく分かっていません。また、1万年前から文化的な継続性があった場合でも、下田原期の遺跡では台湾の文化的影響を示唆する遺物が確認されていることから、南方地域との接触はあったと考えられます。

<用語解説>
注1)
本遺跡は現在の南ぬ島石垣空港の滑走路脇に位置する石灰岩洞穴の遺跡で、この遺跡からは古い化石人骨が発見され、日本で初めて人骨そのものから約28,000年前という古い年代が測定されたことで大きな注目を集めました。一方で、遺跡からは28,000年前以降の時代の地層も発見されており、複数の時代にこの洞窟が使用されていたことも明らかになっています。
注2)土(粘土)を加工し練り固めて成形した後、焼き固めることで完成された器のことを指します。土器は地域や時代によっては表面に釉(樹脂や泥、漆など)を塗って表面加工したりもしますが、南琉球の先史時代の土器は表面加工のない所謂「素焼き」の土器です。
注3)波照間島で発掘された下田原貝塚に由来して名づけられました。下田原貝塚の出土遺物は現在沖縄県指定の有形文化財に指定されています。
注4)遺跡や遺物などの物質的な痕跡から復元されることから「物質文化」と呼ばれますが、簡略して単に文化と呼ばれることもあります「例:旧石器文化、縄文文化など」。物質を基に復元されているため、言語や思想などは復元することが困難であるという性質も持っています。
注5)放射性同位体の炭素14(14C)の存在比率の一定性や半減期の性質を利用した年代測定法です。主に動物の遺骸や炭化した植物残滓から測定されます。先史時代遺跡は時代を特定する手がかりとなる歴史資料がないことが多く、こうした測定年代が遺跡の時代を決定するのに用いられます。
注6)遺跡から計測された放射性炭素年代によって約4,800~3,600年前の年代が与えられていますが、正確な終末の年代はよく分かっていません。しかし、約2,800年前には土器を利用しない次の時代の遺跡が確認されていることから、少なくとも2,800年前には下田原期が終焉を迎えていたものと考えられています。
注7)北琉球と九州以北の日本列島が大きく異なるのは、九州以北が農耕社会を伴う「弥生時代」に入った後も、その影響をほとんど受けずに従来の狩猟採集社会(貝塚時代)を継続したことです。また、縄文時代に九州地域などから受けた文化的影響についても、土器の形態や文様の類似が確認される一方で独自性も強く、九州などと全く同じ物質文化が展開したわけではなかったことが分かっています。
注8)北琉球では底が尖った形態や、文様などで装飾されるのが特徴的な土器の利用が展開したのに対し、南琉球では底が平らで文様も殆どない土器の利用が展開しました。また、南琉球では土器の外面に把手を持った形(図4)が特徴的で、こうした土器は北琉球で確認されていません。
注9)統計データに対し、統計学の理論・モデルに従って解析を行う方法です。膨大なデータからその傾向やパターンを解析することができます。データは増加すればするほど人の目で処理・解析することが困難になりますが、近年はコンピュータが発達したことでこうした膨大なデータ(ビッグデータ)の統計解析が可能となっています。
注10)土器の生地のことを指します。考古学的な胎土の分析は従来も行われており、胎土が含有する鉱物を分析することで、主に土器素材の産地を特定しようとする方向性で進められてきました。
注11)測定サンプルにX線を照射した際に発生する固有のX線のことです。これを測定することで試料に含まれる元素を同定し、そこに含まれる元素の構成比を分析することが可能な技術です。様々な形態のサンプルを壊すことなく測定することが可能です。

<参照文献>
沖縄県立埋蔵文化財センター(2017)『白保竿根田原洞穴遺跡 重要遺跡確認調査報告書1-事実報告編-』沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第85集、沖縄県立埋蔵文化財センター。
沖縄県立埋蔵文化財センター(2017)『白保竿根田原洞穴遺跡 重要遺跡確認調査報告書2-総括報告編-』沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第86集、沖縄県立埋蔵文化財センター。
Aoyama, H., K. Yamagiwa, S. Fujimoto, J. Izumi, R. Ishikawa, S. Kameshima and T. Arakaki. 2018. A new nondestructive approach to chemical analysis of potsherds using an X‐ray fluorescence microscope: Case study about the past pottery manufacture in the Yaeyama Islands(X線分析顕微鏡を用いた新しい非破壊的な土器化学分析:八重山列島の土器製作に関する研究). X-Ray Spectrometry, Volume 47, Issue 4, 265-272.
山極海嗣・青山洋昭・泉水 仁・石川良介・藤本真悟・亀島慎吾・新垣力(2018)「琉球列島八重山地域における土器文化消滅時期前後の土器粘土成分の比較-X線分析顕微鏡(XGT)を用いた土器粘土素材の利用・加工へのアプローチ-」『貝塚』73号、7-15頁。

<論文情報>
(1)論文タイトル
:「A Possible New Oldest Pottery Group in the Southern Ryukyu Islands, Japan: Comparative Analysis of Elemental Components of Potsherds from the Shiraho-Saonetabaru Cave Site.(南琉球における新しい最古の土器グループの可能性:白保竿根田原洞穴遺跡から出土した土器の元素成分比較分析)」
(2)雑誌名:『Journal of Archaeological Science: Reports』
(3)Kaishi Yamagiwa1*, Shingo Fujimoto2, Hiroaki Aoyama3, Jin Izumi4, Shingo Kameshima5.(* 責任著者)
(4)所属
 1:琉球大学戦略的研究プロジェクトセンター
 2:琉球大学医学研究科(元琉球大学戦略的研究プロジェクトセンター)
 3:琉球大学研究企画室(元琉球大学戦略的研究プロジェクトセンター)
 4:琉球大学研究基盤センター
 5:沖縄県立埋蔵文化財センター
(5)DOI:10.1016/j.jasrep.2019.101879
(6)掲載ページURL:https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S2352409X1930152X?via%3Dihub